野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

旅行業法/アートをひらく

ガチャ・コン音楽祭の打ち合わせ。財団の山元さん、福本さん、コーディネーターの野田さん、永尾さんと。10月23日のツアーライブ

あかねさす ゴング(鐘)とバカ(場歌)の ひらく音

について。東近江の隠れた鐘スポットを巡るので、徒歩、バス、電車と様々な移動手段を使う。バス代、電車代、ライブ入場料などを合算したチケットを作り、それをまとめた参加費にできれば、シンプルになる。ところが、そうなると旅行とみなされ、旅行業法に抵触するので、そうできないとのこと。だから、お客さんには、電車のチケットは個別に購入していただき、貸切バスのバス代を個別に徴収し、それとは別にライブ入場料も徴収することになる。

 

旅行業法のことを調べるために、8月22日に入校だったフライヤーデザインの〆切が1週間伸びた。〆切が先送りになったことで、チラシのメインビジュアル案の別案を作成してもらったり、新たなデザインのアイディアが出てきたりして、発想が広がった。本来だったら時間切れで入校だったところが、旅行業法のおかげで、今、デザインを精査する若干の時間の余裕ができた。必要な情報を如何に伝えていくか、良い議論もでき、とても見やすく情報も整理された良いデザインが仕上がりつつあるが、ディレクターとしてのぼくができること、やるべきことを、やれていないのではないか、と感じた。

 

自分のモヤモヤを少し考え直してみた。財団のお二人は公的な事業を運営する立場から語られるし、お二人のアートコーディネーターは、アーツマネージャーの立場から語られる。アーティストである野村誠の視点で言えること、ディレクターとして、他のアーティストの声を自分なりに代弁することが、もっと必要なのではないか。

 

そう考えた時に、ぼくは本番で奏でられるであろう新作の音楽について、全身全霊で説明してきただろうか?そこが一番不足しているのではないか?と改めて反省した。だから、午後にデザイナーの大田さんを交えての打ち合わせの際では、言葉での説明の途中でピアノを弾いた。音楽だと伝わらないこともある。でも、音楽だから伝わることもある。言葉で説明されないと腑に落ちないこともある。でも、言葉を超えて、音だけで伝わることもある。少なくとも、それを信じて、音楽家としての日々を過ごしている。

 

ぼくが伝えたかったことは、ツアーライブのコンセプトではない。コンセプトは東近江の梵鐘をめぐって、それに触発されたアーティストの新作が披露されること。でも、そこで語られていないのは、作品の目指す肌触り。作家が何をしようとしているのか、という方向性。ぼくは、それを自分なりに伝える作業を怠っていた。だから、この打ち合わせでピアノを弾いたし、下手な歌を歌った。

 

山本啓が現在構想している新曲は、誰も聴いたことがない。山本啓のアトリエを訪ね、5時間近く話し、様々な雑談を通して感じた彼の美意識や価値観。そして、ピアノとヴァイオリンで即興した時の感覚。オープンしたばかりのブライアン・イーノ展について啓さんが語った言葉。そんなことを通して、彼が梵鐘の響きとピアノとヴァイオリンと光で描こうとしている世界を、ぼくなりに想像できている。そのことを、何とかして、まず一緒に仕事をしている人に感じてもらいたい。それが、フライヤーなり、様々な広報活動で、核になるべきことだ。どんな作品が生まれようとしているのか?言葉にならないものを、何とかして伝えたい。彼の音は、静謐な響きの世界から聴こえてくる祈りの歌とでも呼べる誠実で尊いものだ。

 

ベトナムの音楽に乗せて、額田王が詠んだ歌を児童合唱団が子どもの歌声で響くと、和歌は童謡(わざうた)になる。竹田神社の森がざわめき、鳥が呼応し、谷口未知の即興的なボーカルが重なってくる。そこにヴァイオリンや鍵盤ハーモニカも重なってくる。それは、混沌としているようで、最も美しいギリギリの調和だ。

 

混沌となることを恐れて、全部を一つに揃えようと、空気を読むことと協調性を強要されがちな日本社会において、バラバラに鳴り響く美しい世界を音楽として体感してもらうことに意義があると思う。バラバラな複数なレイヤーが重なり合って共存するデザイン案が、いつの間にか分かりにくいのではないか、と単純明快なデザイン路線に舵が切られかかったので、今年の「ガチャ・コン音楽祭」の持つ、バラバラに複数のレイヤーがある一言で説明できない複雑さを、メインビジュアルで出せないか、再度、お願いした。複雑さを肯定した上で、複雑さの美しい世界へアクセスする道筋を、一歩一歩丁寧に作っていきたい。それが、「アートをひらく」ということ。

 

今回、改めて気づいたのが、公共性と言っても、

 

1 公共性=アクセスの良い場所で開催する

2 公共性=アクセスの容易でない場所にガイドする

 

の方向性がある。1番の場合は、「みんなが来やすい」を重視し、大都市の駅前のアクセスしやすい劇場で開催する。みんなが知っている親しみのある有名な曲を演奏する。これも一つの公共性。でも、我々の行う公共性は、2番。近江鉄道沿線の、しかも駅から決して近くない魅力ある場所で開催する。一部の限られた(地域の)人に向けるならいいが、県の税金でやってるんだから、県民のみんながアクセスしやすい大津駅で、と言われそうだが、大津が中心で、金壽堂や竹田神社や金念寺がフリンジであると、誰が決めたのだろう?別の見方をすれば、金壽堂や竹田神社や金念寺が中心にもなり得る。画一的な公共性からこぼれ落ちる何かを補う別の公共性がある。少しのガイドをつければ、それらの場所は、一部の地域の人に限定されずに、みんながアクセス可能な場所になる。音楽もそうだ。一部の人に愛好されている音楽は、一部のマニアのためのものではない。そこに少しのガイドをつけることで、断然アクセスしやすくなる。それが、アートを「ひらく」ということ。

 

アートを「届けたい」という強い思いを抱くチームで仕事をできている。それぞれの届け方の方法や考え方は違う。それを全部殺さずに活かしていきたい。難しいけど、全部、活かしたい。だから、遠慮して控えてしまいそうな自分の意見も、出していこう。アートを「ひらく」には、まずは口を「ひらく」ことからだなぁ。頻繁に会議を「ひらく」から、ここまで来れた。みなさん、感謝。