野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

通訳も音楽のようだ/20年前の9月11日

午前中は、里村さんと熊本市内まで出て、島田美術館のカフェでランチ。

 

午後は、音まち事務局と打ち合わせ。さらに、通訳の方々と打ち合わせ。特に第2部では、日本語、英語、インドネシア語タイ語の4ヶ国語が飛び交うので、通訳との打ち合わせ+リハーサルは重要。通訳のテンポをよくするために、ぼくが日本語をリズミカルに言って、通訳が入るきっかけを指揮できればいいということが分かった。通訳も音楽でありパフォーマンスの一部なのだ。明日の混沌の4ヶ国語入り混じる50名を超えるワークショップには、ドキドキする。7年前に『千住の1010人』を開催した時に、1010人で様々な楽器が混ざり合うアンサンブルがどうなるのか、想像できずにドキドキしたが、今回のオンラインワークショップも、本当に初の試みなので、ドキドキ。

 

でも、スタッフたちとも通訳の方々ともいいチームワークでやれているので、明日の開催が本当に楽しみ。

 

いよいよ、明日9月12日の15:00-19:00『アジアだじゃれ音Line音楽祭』がオンライン開催。そこに到るまでに、様々な歴史や背景w、ざっと説明すると、以下のようになる。30年以上の間、何度も東南アジアのアーティストに触発されながら、少しずつ目から鱗がとれたりして育んできた。明日は、そのエッセンスをシェアできる場になれば、と願う。
 
80年代、野村が大学生の頃、サウンドアートや現代音楽の会場で、何度も佐久間新とすれ違う。
 
1996年 児童合唱とジャワ・ガムランのための《踊れ!ベートーヴェン》作曲。インドネシア公演の際、プランバナン中学校の子どもたちとのリハーサルを、インドネシア留学中の佐久間新と行う。
 
2004年 Arts Network Asiaの助成でバンコクにリサーチに行った際に、樅山智子さんの紹介でAnant Narkkongと出会い、アユタヤの遺跡で初共演し、その後も数々のコラボ(05年にインドネシアで佐久間さんとも共演。06年に日本、07年にイギリス、オーストリア、タイ、カンボジア、09年にオーストリア)。
 
2011年 インドネシア東日本大震災のためのチャリティ・コンサートを企画した際に、Memet Chairul Slametと共演。帰国後、『野村誠 千住だじゃれ音楽祭』を開始。
 
2013年 日本財団の助成でインドネシアとタイで、原発をテーマにした共同作曲プロジェクトを行う。インドネシアでは、Memet、タイでは、Anantと濃密なコラボレーション。国際交流基金の招聘で、クアラルンプールでNg Chor Guanと初共演(15年の2度目の共演では、Anantも共演)。同年、Memetを千住に招聘。
 
2014年 Anantを千住に招聘。『千住の1010人』を開催し、MemetとAnantを招聘。Anant作品でタイのダンサーと佐久間の舞踊もあり。1010人でのイベントを経て、だじゃれ音楽研究会が柔軟性と表現力が高まる。
 
2015年 だじゃれ音楽研究会のバンコクツアーで、Anantと濃密な交流
 
2016年 だじゃれ音楽研究会のインドネシアツアーで、Memet、Gangsadewa、佐久間さんと濃密な交流。このツアーの報告イベントの打ち上げで、インドネシアに行く予定の美術家の北澤潤さんを紹介され、インドネシアの話などをする。
 
2017年 タイの東北部でカンボジア国境近くのYord宅に2週間ホームステイし、子どもたちと音楽創作。
 
2020年 『千住の1010人 in 2020年』でAnant、Memet、佐久間さんを招聘の予定が、コロナで実施できず、『千住の1010人 from 2020年』と方針変更。
 
2021年 『アジアだじゃれ音Line音楽祭』に、Anant、Memet、Chor Guan、佐久間さんを招聘。

夜、四股を踏みながら、20年前の911のテロを思い出す。京都女子大学の専任講師になった1年目だった(2004年3月には退職してフリーランスに戻る)。ダンサーの山下残くんと電話していた最中に、残くんが、「野村くん、大変なことやで、飛行機がビルにつっこんで」とか言い出して、言葉では全く理解できなかった。その後、銭湯に行って、テレビ見て、徐々に理解し始めた。翌日(12日)、河村めぐみさんの企画で公開練習というコンセプトのライブがあった。尾引浩志さんと思いっきり叫んでみた。その数日後、祈るような気持ちで、《DVがなくなる日のためのインテルメッツォ》という曲のエンディングを書いた。祈りたい。