野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

野村誠の動態展示/RIVERSE OUTREACHES

ながらの座・座での5月の企画が公開になった。密にならない少人数での時間。みなさん、お会いできるのを楽しみにしております。

 

nagara-zaza.net

3月の都城での企画RIVERSE OUTREACHES #3についての振り返りトークイベントに出演。以下の動画の1時間30分あたりからが、3月の実験公演。

 

https://www.youtube.com/watch?v=i-qTAVVKm_E

 

これを踏まえた上で、本日のトークREVERSE OUTREACHES #3の振り返り。その動画がこちら。

 

https://www.youtube.com/watch?v=4HQLeKvHkks

 

色々な要素があって、しかも話す人がいっぱいいて、色々な立場の人が色々な意見を言った。こうした色々な立場の人が色々といて話しているゴチャゴチャ感は論点が複数あって分かりにくくなる。論点を明確にして、すっきり整理すれば、わかりやすくなる。だから、大抵は、すっきり整理するために、誰かはいないことにする。それは、無視とか排除とか言われて、無自覚にやるケースがほとんど(例えば、今日のトークであれば、日本語が分からないという人を排除しようと意図したわけではないが、日本語がわかる人だけが視聴者として想定されている)。

 

この無自覚の排除をなくしていくために、意識的に排除しないための仕組みを作っていく。その結果、たいてい、ゴチャゴチャして、わけ分からなくなる。わけわからないから、広がっていきにくい。そういう意味で、山森さんの企画した3月の実験公演も、今日のトークも、いろんな人がいていろんな意見を言って、という状況をつくっていた。それは、単なるカオスではなく、社会の縮図ですよと提示したいところもあるのだろう。と同時に、長津くんや寅雄くんが指摘したように、ここに選ばれてる人と選ばれていない人がいるという意味で、ゴチャゴチャの中にあるキャスティング/線引きについても、常に自覚的に考えていくこと。誰を無自覚に排除しているのか。

 

ずいぶん前だけど、大阪でやった「子ども熱帯音楽祭」で、子どもたちと発表した後、最後に、パネルディスカッションがあった。小学生の吉井くんは登壇する気満々だったが、パネリストは大人のアーティストと学者だけで、吉井くんは出るつもりでいたけれども、引率する大人の事情で、発表が終わると泣きながら連れ去られるように帰って行ったような記憶があり、、、、、と思い、過去のブログを読み返す。2012年8月の時には、吉井くんはディスカッションに参加できずに、泣いて帰った。その時の日記には、ディスカッションのことは書いていないが、こちら。

 

makotonomura.hatenablog.com

そして、半年後、ぼくらは、それを反省しリベンジしたくって、吉井くんにもシンポジウムに出てもらった。

 

makotonomura.hatenablog.com

こういう一歩一歩、無自覚に誰を排除しているのかに気づくためにも、複数の視点、複数の立場の人が集まり、違った角度からの気づきがあるといい。創作をしていく上で、共同創作、共同ディレクション、というのは、色々な気づきや発見ができる可能性を秘めている。だから、整理できない混沌みたいになりやすいけれども、整理された一人の考えに統率された世界ではない創作の仕方に、ぼくはやっぱり惹かれる。そして、舞台をつくるのは、いわゆるアーティストと言われる人だけではなくって、マネジメントと言われる人も一緒につくっているし、技術スタッフと言われる人も一緒につくっている。それは、綺麗ごととかではなくって、本当にフラットにそう。それは、手間暇かかるし、面倒くさいことだし、なかなかすっきりしないし、厄介この上ないことなので、誰かに全権委ねちゃおうと、指揮者とか演出家とかに任せてしまいがちなのだけれども、そうではない委ね方、シェアの仕方、そういう意識を持って作っていくことの難しさ、面白さ、を本気で考え続けていきたい。(もっと、書きたいけど、時間がないので、また続きは後日。)

 

夜は、「五線紙のパンセ」に掲載するための写真選び。全て20世紀の写真なのでアナログの写真をスキャンした。公開、間近。お楽しみに。