野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

重陽の相撲聞芸術

あんなに猛暑だったのが、急に秋っぽくなってきた。冷房は不要になり、扇風機も要らない。この季節が好きだ。日本で演奏活動をすると、大概の場所では、生音の繊細な音色を聴いてもらおうと思うと、夏と冬は空調のノイズが邪魔をすることが多い。正直、春と秋のごく僅かな時期だけ、空調のノイズを消すことが可能になる。または、空調のノイズを音楽の一部とすることが求められる。空調がなくなると、耳が心地よい。

 

しかし、最近はZOOMという会議ツールを使って遠隔で音楽をする方法について、試行錯誤することになり、この場合は、空調のノイズなどはデフォルトで除去されていて、空調以外の楽器の音色さえも除去されてしまう。だから、この夏、空調のノイズが妨げになるような体験は、ほとんどなかった。

 

9月9日、重陽ということで、本来ならば上賀茂神社で烏相撲が行われる。今年は、新型コロナウイルス感染防止ということで、行われないらしい。今まで何度も見る機会を逃しているので、今年こそ見に行こうと手帳に書き込み予定を入れないようにしていたのに残念。来年は行けますようにと祈る。

 

日本各地に相撲神事がある。2014年に山田知子著「相撲の民俗史」を読み、相撲神事を色々見に行きたいと切望した途端に、2015年にさいたまトリエンナーレの仕事が舞い込み、岩槻の古式土俵入りのリサーチが始まる。2017年に、神相撲/傀儡舞を見るために大分を訪れ、2018年には、兵庫県養父市のネッテイ相撲を見に行った。今年は、いっぱい相撲神事を見に行こうと張り切っていたが、次々に中止。仕方がないので、ネット上の動画を見て、バーチャルに相撲神事を体験して楽しむ。

 

どうして、こんなに相撲神事に惹かれるかというと、非常にシンプルな動きや声で神と交信する行為の中に、音楽を見出すからだ。その音楽は、様々な技巧によって装飾された音楽ではなく、いわば「裸の音楽」とも言うべきものだ。この「裸の音楽」を見つめ直すこと、それが相撲聞芸術で最も大切にしていることかもしれない。

 

午前中に、「四股1000」で4年前のJACSHAフォーラムを音読した。ぼくは小学校時代に相撲部に在籍したが、校庭に土俵はなかった。だから、砂場の砂で円環の土俵をつくっていた。土俵がなければ土俵をつくる。そこが土俵だと思った瞬間に、そこは土俵になり得る。それは、劇場でない場所も、劇場だと思った瞬間に劇場になれるように。だから、土俵とは与えられるものではなく作るものだ。ぼくは、自分が属するフィールドがない。クラシックでも、ジャズでも、ロックでも、どこに行ってもアウトサイダーになってしまう。だから、ぼくの音楽をするためのフィールド、ぼくが活動できる自分の土俵を作るしかない、と思って、これまで活動してきた。活動の場を与えられるのではなく、切り開いてきた。相撲聞芸術を発表する土俵も、自分たちで見つけていくしかない。土俵はつくるものだ。

 

そんなことを思った午前だったが、午後、JACSHAと城崎国際アートセンターの打ち合わせで、竹野での活動や10月11日の成果発表会のことを話し合った。成果発表会というよりは、公開ワークショップ。竹野に相撲聞芸術を体感するための土俵をつくって、相撲に耳を澄ます体験ができる時間と場を生み出す。金管バンドの子どもたちが、ディスタンスをとって円に並ぶだけで、土俵ができる。その中に入れば、土俵入りになる。バトン部の子どもたちが、大相撲の弓取り式の動きをすれば、バトンなのに弓取りの儀式になる。そんな《JACSHA土俵まつり》、いや《JACSHA土俵あそび》とでも言うべき集い。そんな場が生み出せたら嬉しい。

 

ここ数日、急に思い立って、本棚を整理している。グチャグチャに並んでいた本を、高さ順に並び替える。高さで合わせるので、意外な本が隣同士に来たりする。この本とあの本の出会いを楽しむ。とは言っても、こっちの本棚は相撲関連の本が、あっちの本棚は楽譜やカタログ、そっちは音楽書といった具合に、大きくは分類わけされているのだが。