野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

北斎バンド誕生まで

朝は、「四股1000」。午後は、ピアノで即興演奏をいっぱいした。夕方、「千住の1010人 in 2020年」に向け《Etude for Zoom session 1》、《Etude for Zoom session 2》を作曲。新月のせいか精神が不安定でずっとロー。夜は、ずっと北斎バンドのために10年前の日記を読み整理する。
 
 
9月6日に北斎バンドによるコンサートを行います。10年前に結成され、野村誠北斎漫画の画に着想を得て、「野村誠X北斎」を行なった経緯を、以下に(自分の整理のために)まとめました。参考までに。いろいろ忘れていたこともあり、9月6日に向けて、大きな一歩になりました。
(リンクは全て、野村誠の作曲日記)
 
 
2007年11月20日北斎の音楽プロジェクトを提案したのは、この時はすぐには実現しなかった。
 
2008年1月11日。中溝先生の論文に出会っている。こういうきっかけをくれたアサヒアートスクエアに感謝だなぁ。
 
2009年8月27日、アサヒアートスクエアで動き出した。
 
2009年10月16日、企画概要がかたまる
 
2009年10月21日、中溝先生との打ち合わせ。江戸時代の木琴ブームについて。
 
2009年10月22日、北斎専門の奥田敦子さん、日本音楽専門の茂手木潔子さんと打ち合わせをした。
 
2009年11月3日に、北斎についてのトーク初日。なんと3時間半もやったらしい。お客さんもよく付き合ってくれたなぁ。作曲するために、ぼくはとことん質問したかったんだろうなぁ。奥田敦子さんに感謝。
 
2009年11月4日。前日3時間半のトークをやったのに、翌日に江戸時代の木琴ブームに関するトークを開催したのか。当時の野村誠、自分の興味で暴走していたんだなぁ。
 
2009年12月23日の茂手木さんとのトーク北斎はタンバリンで踊る人も描いていた。
 
2010年1月3日、北斎漫画の作曲に向けて、鵜飼伴子さんの論文「天竺徳兵衛韓噺における趣向の考察〜木琴を打つ座頭をめぐって」を読む。
 
2010年1月20日、縁台美術家の荒野さんと木琴づくりの打ち合わせ
 
2010年1月31日、木琴のバチが曲がっている謎に結論。今年の9月6日の北斎バンド公開収録にも、手作りした曲がったバチは持参しよう。
 
2010年2月6日、「北斎漫画四重奏」の元になる様々なアイディアが出る。当時のぼくは、「やはり、竹澤悦子、元永拓、尾引浩志片岡祐介の4人の魅力が最大限に出る音楽を書くのが、野村誠だと思うのです。」と語っております。そして、いよいよ作曲に着手。
 
2010年2月14日、歌舞伎で使う木琴に書かれていた工尺譜の解読ができる。
 
2010年2月17日、アサヒアートスクエアで木琴を削り続け、調律が確定し、いよいよ作曲に着手。
 
2010年2月18日、序曲「あほくさい」の元になる曲のスケッチが始まる。
 
2010年2月21日、後に「鳳凰」という曲になる木琴コンチェルトスケッチ中。
 
2010年2月22日、雲井調子に着想を得る。これは、「南の北斎」という曲になり、その後「富士越龍」という曲になった。
 
2010年2月24日、ついに「あほくさい」という言葉が登場。
 
2010年3月5日、映像の上田謙太郎とのリミックス作業。「野村誠×北斎」を創作していると同時に、「老人ホームREMIX」も並行してやっていたのかぁ。10年前の野村誠、意欲的な仕事をいろいろやっていたのだなぁ。
 
2010年3月7日、全10曲のラインナップが見えてくる。
1)北斎序曲
2)南の北斎
3)鳥風
4)ODORO ODORO CIRCUIT
5)町人の音楽
6)自由人と虚無僧の狭間
7)遊び人の歌
8)木琴コンチェルト・リミックス
9)陽気なマイナーバンド
10)画狂老人のフィナーレ
 
2010年3月8日、「野村誠×北斎」告知の文章を書く。
「江戸の創造性や遊び心に敬意を示し、その精神を継承し、現代のぼくらの文化として発信していく。2260年の浅草の人々に笑ってもらえるような、とびっきり面白い作品を、ぼくは提示しちゃおうと、思っているのです。」
 
2010年3月15日、北斎バンドの初リハーサル。
 
2010年3月20日、プログラムノート執筆。
北斎の懐の広さや、江戸の遊び心に敬意を表し、そうしたスピリットこそを再現しようと考えた時、江戸の音楽と、野村誠の音楽は、異なった二つではなく、融合したわけです。」
 
2010年3月22日 ついに「北斎漫画四重奏」世界初演@アサヒアートスクエア