野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

ヒューのFifteen Monarch Butterfliesが公開に

ヒュー・ナンキヴェルの新曲 Fifteen Monarch Butterflies の音源が公開になった。これは、ヒューの友人たちが同じ譜面を自宅のピアノで演奏したものを録音し、それを同時に重ねたもの。15人の演奏が微妙にずれて、音楽が空間的になる。お互いに別々の家に籠っているのに、こんな風に共演できたことを本当に嬉しく思う。イギリスのトーキーにいるヒューと、ブリストルにいるローリーと、モアカムにいるピートと、ハダスフィールドにいるボブと、バスにいるディーンと、オクスフォードにいるエリックと、ウェルシャンプトンにいるメアリーと、ニュートンアボットにいるビリー、そしてぼくが会ったことのない6人の人と、こうして合奏できたことに感謝。これを演奏するのは、メディテーションのような体験だったが、聞くのもそうだなぁ。

 

soundcloud.com

 

今日も1000回四股を踏むオンラインセッション。東京や茨城にいる友人たちとオンラインで毎日会って、ただ四股を1000回踏む。これもメディテーションのような時間だ。体が喜んでいる。

 

今年は、チャーリー・パーカーも、デイヴ・ブルーベックも生誕100年で、ジャズを勉強する上でもブルーベックの伝記を読んでいる。YouTubeにもブルーベックの音源がいろいろあるので、聞いているが、「Le Souk」という曲の途中でのピアノのソロが、和音の連打、連打、連打で、どんどん高揚してくるような連打で素晴らしい(以下の動画の3分ごろから)

 

www.youtube.com

【オンライン公開(ゆる)トーク 『地域アート』著者と編集者×2による『地域アートはどこにある?』感想戦!】

 

というオンライントークを視聴。

 

この3月に発売になった「地域アートはどこにある?」(堀之内出版)という本についてのトークで、小林えみさんの貧困問題についての問題提起など意義深い話もあった。と同時に、「地域アートはどこにある?」というテーマに対して、あまりにもお粗末なトークだったとも思ったので、(「(ゆる)トーク」と銘打っているものに敢えて突っ込むのもどうかと思うが)、無視するよりも良いのではと思い整理してみた。(あくまで期待を込めて)。あと、この意味不明な「地域アート」という言葉が、実態を伴わない観念としてゾンビのように浮遊するのが、気持ち悪く、いかに整理。ついつい厳しい言葉を書いてしまう。(4年前に書いた日記では、もう少しあたたかい言葉を書いたのだけど、厳しめの言葉の方が届くかもと思って、)

 

4年前に書いた日記
 

 

1)「地域アートはどこにある?」という本について、具体的な感想がほとんど語られなかった(ように、ぼくには聞こえた)。1ヶ月前に出た本なのだから、具体的に誰の論考のどこが面白かったか、面白くなかったか、つまらなかったか、どの対談の誰の発言が気になったのか、など語るべきだと思った。本当に「地域アートはどこにある?」という本を読んだのだろうか?本を書いた著者たちは、批評を楽しみにしていたはずだったと思うが、、、、。

 

2)藤田直哉さん(2016年に堀之内出版から出た「地域アート」の著者)は、「地域アート」という本を書くにあたり、十分に取材したり研究した上で書いたのだろうか?(ちなみに、「地域アート」とは、ある地域名を冠した美術イベントのこと、と「地域アート」では定義されているので(p.7)、ベネチアビエンナーレ横浜トリエンナーレダルムシュタット国際現代音楽祭、取手アートプロジェクトなど、様々な芸術祭を指すとも思われるが、同じ本の中で熊倉純子の言う「アートプロジェクト」に類するとのことも言っており、この二つが合致しないので、意味不明。)具体的に、日本全国の全都道府県の大小様々な芸術祭を(例えば数百件)取材した上で書いた論考なのか、それとも、ある芸術祭を(数年間)密着取材した上で書いた論考なのか、それとも、いくつかの芸術祭を見たり評判を聞いただけで憶測で書いた論考なのか?(少なくとも、ぼくが淡路島や千住や鳥取や山形や青森や豊橋や城崎や、、、様々なところで活動している中で、藤田直哉という人が現場を見学し取材したいと現れたことは記憶する限り一度もない)。つまり、何を見て書いた本なのかが不明なので、何について論じているのかが不明で、「地域アート」という言葉で何を表現しているのかも不明で、批評がない。具体的に作品名(プロジェクト名)作家名をあげてちゃんと批評してほしい。

 

3)あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展」に抗議した人の中に、実際の作品を見たわけではなく、聞きかじった情報から抱いた印象で抗議した人がいたように、「地域アート」なるものを論じるならば、実際の作品(あるいはプロジェクト)を鑑賞した上で論じる必要があると思う。

 

4)十和田市現代美術館と十和田の町の人々と藤浩志とNadegata Instant Partyと北澤潤の活動を論じる際に、他の具体的事例をあげ比較する上で批評することはできないものだろうか?例えば、藤浩志さんの今回の作品はこうだったが、藤さんが鳥取銀河鉄道祭での美術部はどうだったし、新潟での美術部はどうで、秋田ではどうで、、、、、だから、今回の十和田の作品は、こういう点で良かったと。あるいは北澤潤のプロジェクトと、別のアーティストのプロジェクトを対比させて論じてみることだってできるかもしれない。Nadegata Instant Partyの十和田以外での別プロジェクトを、数多く鑑賞した上で、今回の展示はどうだったか?と論じる。十和田市現代美術館と市民ボランティアの関係と、水戸芸術館とボランティアの関係では、こういう部分が違って、だからこそ、ここが良かったと。ぼくのようないくつかの芸術祭やアートプロジェクトを見ている程度の人間でも、もっと具体的に、それぞれの作品やプロジェクトに関して、批評する言葉を持っているつもりだ。

 

ぼくが知るいくつかの芸術祭を例にあげても、全然違う。山形ビエンナーレでの荒井良二さんが身を削るようにして仕掛けていった数々の実験と、岡山芸術交流で弓道のリサーチから生まれた島袋道浩くんのインスタレーション「弓から弓へ」と、取手アートプロジェクトで深澤孝史くんが団地住民と行なった「とくいの銀行」は、坂本公成くんが島全体を舞台にしたダンスをつくったのと、、、、、どれも本当に面白かったが、どれも全然違う。それぞれの表現を、もっと言語化し照らす批評が欲しい。

 

芸術祭は千差万別で、アーティストは千差万別で、マネジメントも千差万別で、地域も千差万別で、本当に多様である。その多様を観念としての「地域アート」という言葉でまとめた。その観念こそが実態のないゾンビのように一人歩きしていった。そこに異を唱え、具体的な事例を検証せよと、十和田市現代美術館の企画者たちが本の冒頭で訴えていた。それに対して、本気で返答して欲しいと思う。仮にも「地域アート」という言葉を捏造し、本を出した藤田さんには、もともと何らかの情熱があったはずだ。そう期待してエールを送る。我々アーティストは命がけで真剣に作品を発表している。アーティストの表現の現場に立会いに行った上で、しっかり研究し、十分に議論をし、本当の意味で批評をせよ!批評家の不在が一番困る!!!!!批評をせよ!!!!具体的に批評をせよ!

 
 
で、これだけ色々書いたので、明日以降、このブログで「地域アートはどこにある?」の批評をします。
 

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