野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

幻聴音楽会を聴く

徳島LEDアートフェスティバル2010での野村幸弘さんの幻聴音楽会「照明の音楽?」を聴きに行く。

和歌山港から2時間フェリーに乗って、徳島港まで行く。

総勢300名以上で行われる野外パフォーマンスということで、期待も高まる。オランダのメルラインの500人の高校生による野外コンサートを見に行った時と同じようなドキドキ感を持ちながら。

鈴を鳴らす一般市民の人々が250名いたらしい。本番前に、対岸から漏れ聴こえてくる音、出してはいけない時に、色々な音が聴こえてくる、ああ面白い。あそこに、太鼓がセッティングしてある、あそこに楽器がある、でも人の姿はない、一体どんな音楽会が行われるのだろう?そうやって、想像している時、そこでは鳴っていない(想像上の)音楽が、自分の心の中で鳴り響く。僕の中で、幻聴音楽会は始まっている。

さらには、出演者の合唱団を呼び出す放送が流れる。これも、本当に合唱団が出演するのか、それとも、そもそも本当はいない幻の合唱団を呼び出している放送なのか、甚だ疑わしい。「幻想工房」を主宰する野村幸弘さんだから、そもそも、そんな合唱団なんて、いないのかもしれない。ぼくは、架空の合唱団が行方不明になった音楽を想像する。

こうした存在しない架空の音楽を空想すること、それが幻聴音楽会の醍醐味のように思う。





ところが、実際に開演時刻になったら、大音量でエレクトロニクスの音がスピーカーから流れてきた。聴こえない音楽を宝探しのように聴く時間が終わった。このエレクトロニクスの音が、定かには聴こえない程度の音量で、どこかで微かに鳴っていたら、幻聴の時間が続いたのになぁ、と思ったが、鈴の音や吹奏楽や打楽器よりも、遥かに大きな音で、普通のライブイベントの音量で、はっきりとクリアに鳴っていた。

この会場から遠く離れた別の場所にいたら、時々、風に乗って聴こえる音は一体何だろう?と、この音を、幻聴かも、と楽しめたかもしれない。しかし、すぐ近くのスピーカーから拡声される音は、繊細な音を掻き消してしまうので、聴こえない音を探して聴こうとしていた自分が、いつの間にか耳を閉ざし始めていることに気づくのだ。

その後、鈴の音や、吹奏楽の音など、色々な音が空間の中にあったのだけれども、それは、スピーカーから拡声される音がぼくを幻から覚醒させてしまった後のこと、夢から覚めてしまった後のこと、だった。

幻聴音楽会のサウンドづくりは、通常のコンサートのサウンドづくりとは、根本的に違うべきではないか、とぼくは思った。例えば、吹奏楽団がいる、吹奏楽団がいる、とかではなく、(実は吹奏楽団が音を出しているのだけど)一体、どこから何の音がしているのか分からない、そんな音があったらいいのではないか?実はシンセサイザーなのだけど、実はスピーカーから音が出ているのだけど、そうは聴こえないようなサウンドインスタレーションサウンドの(空間の)デザイン、そういったことが可能になった時、観客は、聴こえない音を探し、聴こえたかもしれない音を想像し、それが、光や空間と融合して、独自のストーリーを妄想できるのではないか?

そう考えると、幻聴音楽会には、可能性がまだ多くあると思うし、まだ本当の意味での「幻聴音楽」は実現できていないのでは、と感じた。

もちろん、このコンサートの徳島の地域へ与えた影響は、とても大きかったようで、非常に意義深いプロジェクトの始まりだったことは確かだ。コンサートの打ち上げの席に参加して、地元市民の人々が様々な形で参加できる機会を作った「幻聴音楽会」のコミュニティ・ミュージックとしての役割は、とても大きなものだったのだろう、と思う。また、その音楽を作曲したり、演奏した人は、それぞれの持ち場を最大限に全うしていたとも思う。でも、この音楽会の全体の音量や音質などの音のバランスを(リアルタイムで聴きながら)コーディネートする音空間を指揮する指揮者のような存在が不在のまま、この音楽会は行われていたように思う(非西洋的に指揮者不在での共同を目指したのかもしれないが‥)。しかし、そうした音の場の全体をクリエイティブにデザインできるアーティストが一人加わるだけでも、この音楽会は「幻聴」を実現できたのではないか、それだったら、ぼくも夢から覚めずに作為された「幻聴」を能動的に楽しめたかもなぁ、と思った。