野村誠の作曲日記

作曲家の日記です。ちなみに、野村誠のホームページは、こちらhttp://www.makotonomura.net/

ブリコラージュ展2日目


今日も、P−ブロッで民博で演奏。
午前の部は、昨日同様に演奏。

午後の部からは、ゲスト中川真さんが加わった。真さんは、民博の資料を演奏するということで、ぜひ参加したいと名乗りをあげてきた。民族音楽学者でサウンドスケイプ、サウンドアートの研究者で、アマチュアオケで打楽器奏者をしていて、ガムラン奏者である彼がどんな風に演奏に加わるのか、楽しみだった。

ところが、彼は出てくるなり、即興芝居を始め、ほとんど資料で音を出すこともなく、しゃべり続け、演じ続けた。これには、驚いた。これだったら、わざわざ今回やらなくても、別のチャンスでもできることだ。民博の資料を演奏できるのは、今日が最後のチャンス。しかし、そんなことにはお構いなしに、彼はパフォーマンスをする。

そもそも、最初のコンセプトは、民族学的資料を楽器として演奏する、ということ。仮面も、バラ油蒸留器も、犬ぞりも、すべて、元の用途を忘れて、楽器としての価値を見出された。そして、何度も演奏されることによって、それらは、ますます楽器のようにぼくらの身体になじんでいった。そこに中川真がやってきた。そのとき、すでにぼくらの中に、「これらは楽器です」というコモンセンスが成立していた。こうした共通認識に、反射的に違和感を覚え、そこに異物を導入したいと思うのが、中川真だ。できあがっている世界に馴染むのではなく、そこに揺さぶりをかけたいという衝動が、彼の中に起こった。

その結果、元の用途を失い楽器としての価値を見出された物たちの、楽器としての側面を忘れる作業が始まった。これは、犬ぞりでも、楽器でもない。では、何か。そこでは、5歳の子どもがするごっこ遊びのように、見立ての作業が始まり、すべてのものは舞台美術、大道具、小道具に変容した。楽器だなんて一面的な見方をやめましょう、ということ。

このプロセスすべてを味わったぼくにとっては、面白かった。見ていたお客さんにとっては、飛躍しすぎていて、どうだったかは分からない。最後の公演を見に来た本間直樹くんが、資料の演奏が聴けなかったことを非常に残念がっていた。